百ケ日の法要を執り行ってきました。


場所は、このブログではお馴染みの深大寺の動物霊園。

うさぎちゃんがこの世から居なくなって100日も経ってしまった(;´Д`)
居なくなって直ぐは、自分があまりにも腑甲斐なさ過ぎて自己嫌悪にすら陥ったけど、法要を通して色々考えさせられました。

何も、法要の場に行く事が大切な訳じゃないけど、うさぎちゃんに関わってた人はセイ以外に何人かいるのに、法要は毎回セイだけ。
そばがら

火葬の当日は、セイ以外にももう一人駆け付けてくれたけどね。

【法要は亡くなったものの為ではなく、故人を失った人の心を癒す為にある】
なんてのをどこかで目にしました。
確かに、法要はうさぎちゃんの為ではなく、失った事によって穴があいてしまった心に、何かを詰め込む為の行事なのかもしれない。


法要にくる度に、風通しが良くなった心に、何か色々と思う事が詰め込まれたりした。


『忘れるって事は、人間に備わった重要な能力』
そんな事も何かでみた。

どんなに辛い事が起きても、忘れる能力があるから人は前向きに生きていけるみたいな事が書いてあった様な気がする。
確かにそうなんだけど、忘れるだけの能力なら、生きてる意味なんかないと思う。
忘れる前に、言い方は悪いけどそれを踏み台にして、顧みて進める能力がなければ進歩がない。


たぶん、忘れる能力ってのも人それぞれなんだろうね。
たぶん、忘れる能力に関して言えばセイは劣ってるのかも。


女々しく、何でもいつまでも覚えてる。
嬉しい思い出も、楽しい思い出も、悲しい思い出も、苦しい様な思い出も。
みんなみんな、宝物だと思ってる。

自分が老けて、最後に死ぬ時に持っていきたいものを挙げるなら、やっぱり宝物な思い出だと思う。


思い出がなければ、これから先、生きてゆく楽しみも意味が無いような気さえする。
旅行に行ったり、誰かと遊んだり、何かをした事が思い出になって、そんな思い出を共有出来る人か傍に居る状態が幸せだったり。


傍って言ったって、目に見える傍じゃなくたっていい。
例えば、うさぎちゃん。
一緒に過ごした思い出。セイはこれから先、ずっと忘れないだろうし、きっとうさぎちゃんだってどっかから見守ってくれてるんじゃないかって思う。


そんな事を考えたりしながら、うさぎちゃんが兎じゃなくて人間だったら、この法要には建前でも関わった人は集まったりするんだろーなーと、無常さを感じながら、形じゃないから、心のどこかにうさぎちゃんは居てくれてると信じたり。


まぁ、でも忘れていくんだろうね。すでに忘却の彼方なのかな?

晴れた日に法要にこれて、今回も一人で来るんだろーなと思ってた場所に、セイが伝えたからだろうけど、もう一人がきてくれたのにはチョット感動だったね。


なぁ、うさぎちゃん。


色々考えさせてくれて有難う。
人も動物も植物も命の重さは同じと昔の尊い人はいったけど、多忙に追われてそんな事も考えられない人も沢山居たりするんだよ。
多忙なんてものは、誰の所為でもなく自分が招いてるだけ。
世の中は、自分の事ばかり考える人が増えたから、ひどく傷つく人が増えてるってのに、チョットだけ悲しいね。


こんな青臭い事ばっかり考えて進歩がないけど、長い目で、長い耳か? 見守ってよ。